14  きっかけはぎっくり腰 


ぎっくり腰で気付いたひとり暮らしの女性は

   



「まろみちゃん、来週からの『わくわく片付け講座』の申込書はまとめてくれた?」


「はい、年齢は38歳から78歳まで。受講の動機は、ものを片付けたいのが一番多くて。娘夫


婦と同居のためマンションに引っ越すので、一戸建ての荷物を片付けたいという方が1名。変


わりダネでは、ぎっくり腰というのがあります」


「どういうこと?」


「それが、ぎっくり腰としか書いてないのです。片付けようとして、物を持ち上げたら、ぎ


っくり腰になったということですかね」


「それなら、病院へ行くでしょう」


「ぎっくり腰になったから、片付けて欲しいとか…」


「そうなると講座に参加するより片付けの依頼だし、講座が始まったら意味がわかるでしょ


う」


 受講の動機に、「ぎっくり腰」と書いた献策多津代は、講座の初めの自己紹介で、8ヶ月前


に繊維商社を定年退職し、現在は休職中でのんびりしているとのことだった。


 多津代は2ケ月前に、ベランダのガジュマルの植木鉢を動かそうとしてぎっくり腰になっ


た。それだけならまだしも、よろけた拍子に右足首をくじいた。あまりの痛さにすぐには動


けず、30分後にようやく這うようにしてベッドに倒れこんだ。気がつくと足首が倍くらいに


はれ上がっていた。冷蔵庫まで四つん這いでたどりつき、氷で足首を冷やした。病院へ行け


ば良いのはわかっているがまともに歩けそうもない。かといって、救急車を呼ぶほどでもな


いのでとりあえず横になっていることにした。


 勤めていた頃なら明日の仕事の心配をするところだが、退職してその心配をしないで済む


のがありがたかった。その夜はカップラーメンとスナック菓子食べた。


次の日も病状は変わらず、テレビを見て、非常食の乾パンや缶詰を食べた。たまたまぎっく


り腰になった日に、買い物に行くつもりで冷蔵庫に食料がなかったのである。勤めている時


は週に一度大量に食料を買い込んでいた。仕事を辞めてからは、毎日散歩がてらスーパーへ


行くので、チラシの安売り広告を見てその日の献立を決めていた。


つまり、その日に食べるものだけしか買っていなかった。


マンションの隣人たちとは近所付き合いが煩わしいと思っていたので、あいさつをする程度


の付き合いしかなかった。


 3日目になるとさすがに不安になった。そして、3日の間、一度も電話は鳴らなかった。


会社に勤めていれば、同僚から電話やメールが入っただろうが退職するとピタッと止まる。


これも、不安に拍車をかけた。


このまま、誰にも気づかれずに餓死するのではないだろうかと思った。ようやく、出前を頼


めばよいと気が付きピザを頼んだ。ピザの配達など多津代には初めての経験だった。両親と


暮らしている頃には来客のために、寿司やラーメンの出前を頼むことはあった。


40になった年に今のマンションを手に入れ、ひとり暮らしになった。ひとり分の寿司や出前


を頼むのは気が引ける。また来客もなかったので、出前や宅配という考えが浮かばなかった


のである。ピザばかりでは飽きるし、3人前の寿司、ラーメンと餃子など店屋物が続くと、野


菜や煮物、焼き魚に豆腐の味噌汁など普通の食事が恋しくなる。


 多津代は、自分の友達の少なさに驚いた。会社に勤めている時は、後輩と飲みに行った


り、映画を見たりと、遊ぶのに困らなかった。しかし、今はどこからも誘いの言葉がない


し、倒れていても誰にもわからない。学生時代の友人とも疎遠で、こんな時だけ来てくれと


も頼みにくい。


スマホのアドレス帳にはこんなに名前があるのに、誰にも助けを求められない。


 頼めないのはご無沙汰ばかりではなかった。部屋の中が足の踏み場もないほど散らかって


いるのである。食料を買ってきてと頼んでも、玄関で「はい、さようなら」という訳にはい


かないし、たぶん料理もすると言ってくれるだろう。


そうすると…このありさまだ。腰が痛くて物を持ったり、運ぶなどとてもできないので片付


かない。退職して、整理整頓をして心地良い部屋にしようとは思いつつ、「そのうちに」で


日がたった。


 自分の「見栄」が助けを求められない原因だとは分かっていても、どうにもならなかっ


た。そして、ようやく考え付いたのが、なんでも屋に食料や弁当を買ってきてもらうのであ


る。これなら、家の中の惨状を見られない。


 多津代がタクシーで病院へ行ったのはぎっくり腰から5日後だった。医師にどうしてもっと


早く来なかったのかと驚かれたが、歩けなかったからと口を濁した。


 病院からタクシーでスーパーへ行き、食品や日用品を買って、タクシーでマンションへも


どった。荷物はタクシーの運転手が部屋の前まで運んでくれた。部屋の惨状はますますひど


くなり、憂鬱になった。仕事も無い、友達も無い、汚部屋にひとり。


ソファーに横になり天井を見つめていると、涙があふれてきた。これからどうすればいいの


か。地震にでもなれば、家の中がひっくり返っていても当たり前なのに。そんなことを考え


るとおかしくなって、涙を流しながら笑った。笑うと腰が痛いので、また涙が出た。


 涙が枯れるとお腹がすくのはなぜだろうと思いながら、おそるおそる台所に立った。


 ごはんとみそ汁に、スーパーで買ったヒラメの刺身といんげんの胡麻よごしを皿に盛っ


た。普通の食事がなぜこんなにおいしいのかと思った。


 久しぶりにシャワーを浴びると生き返ったような気になり、その夜はぐっすり眠った。


 多津代は次の日もぼんやりと一日を過ごした。


こんなはずではなかったのに、なぜこうなったのか。困った時に相談できる友人もいない。


ということは、そういう友人をつくらなかったから、というか、つくれなかったから。


 不倫の相手は友達にはなれないし、別れれば赤の他人である。人間はひとりでは生きてい


けないと言うけれど、わたしは今ひとりなのだと思った。今までなぜそのことに気付かなか


ったのだろう。いや、気付きたくなかったのだろうか。そして、これからもひとりで生きて


いくのか。どうすればいいのか、何も考えられず、ぼーっとテレビを見ていた。


 お宅拝見番組で、若い女性のお笑いタレントの家をレポーターが見て回る。大きなマンシ


ョンではないが、きちんと片付いている。多津代は、わたしだって、テレビが取材に来るな


らこれくらいきれいに片づけるのにと思った。そこで気がついた。ほんとに自分はテレビの


取材が来るなら片付けられるのだろうか。


 会社でファイリングは得意だった。社内ではきれい好きできっちりした人と思われてい


た。なのに、自分の部屋はぐちゃぐちゃ。今までに、あのタレントのマンションほどきれい


に片付けたことがあっただろうか。いつも、やればできると思いながらやらなかったのでは


ないか。会社ではできたのに、家ではできないのはなぜか…思い当たるのは人の目だった。


会社ではだらしのない人に見られたくない。能率よく働き、仕事ができるように見られた


い。家では誰にも見られない。


つまりわたしは人の目がなくては片付けられないのだろうか。その夜は悶々として過ごし


た。


 夜眠れなかったので、11時まで朝寝をして、トーストとコーヒーの食事を済ませた多津代


は、またぼんやりとテレビを見ていた。テレビを見たいというより、静かでエアコンの音し


かしない部屋にいるのがいやだったからだ。


ペットフ―ドのコマーシャルを見ながら、こんな時、犬か猫でもペットがいれば気を紛らわ


してくれるかもしれないのにと思ったが、このマンションはペット禁止だったことを思い出


した。このまま年を取ったらどうなるのだろうと考えるだけでこわかった。ここでなんとか


しなければいけない、今なら間に合う。


 もう一度、友達を作ろう。人の呼べる部屋にしよう。ぎっくり腰と捻挫が治ったら、部屋


を片付けよう。


気持ちは前向きになったが、長年溜めこんだ諸々のどこから手をつけて良いかわからない。


会社のファイリングができたのは、講習を受けたからではないかと気がついて、片付け方が


わからないのだから、片付け講座に行けば良いのではないか。


 パソコンで検索して、「わくわく片付け講座」を見つけた。


こうして、多津代は講座に参加したのだった。


 講座の中で、「これからどういう暮らしがしたいか」について悩み、自分の年表を書い


て、学生時代の記憶が蘇った。


 高校時代は美術部で絵を描き、芸大に進みたいと思ったが、絵を描いて食べていけるほど


の才能がないことはわかっていたし、親にも反対され諦めた。


それ以来、筆を持つことはなかった。今さら画家になりたいとは思わないが、絵を描くこと


にもう一度挑戦してみたい。インターネットで調べてみると、通信教育で芸術大学に入学で


きることがわかり、これだと思った。


今は物置になっている部屋をアトリエにしよう。


絵を描くのに、会社員時代に着ていた洋服は必要ない。もう一度、学生に戻ってデッサンか


らやり直してみよう。それから先のことは、その時考えればいい。


 一瞬にして、自分に必要なものと不要なものがわかった。不要なものを捨てると、多津代


の部屋はきれいに片付き、アトリエができた。


また、講座に参加したことで同じようなひとり暮らしの友人もできた。お互いに片付かない


時は手伝おうという約束もした。


 閉じこもり、カーテンを閉め切っていた窓を思い切って開けると夕陽がとてもきれいに見


えた。

 




★「人に見られる」ことを意識するとについては『老前整理の極意』 


  第8回老前整理の裏メニュー 「監視員を決める」でも取り上げています。





 








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