28 、減築で新しい家族の物語をつくる(1)  

 

豪邸に住む宮前家にも苦しい家族の歴史があった




  事務所のホワイトボードにマーカーで予定を書きこみながら、くら子は言った。

「まろみちゃん、明日の二時に、戸田さくらさんの紹介でお客さまがみえるから、よろしく

ね」

「戸田さくらさんて、撫子ホームを作った、あのさくらさんですか」

(10、撫子ホームをつくります!)

まろみは一度さくらに、あなたの言葉使いはなっていないと叱られたことがあり、苦手なの

だ。

「さくらさんはお仕事の都合で来られないそうで、お知り合いのご夫婦がみえるそうよ」

「よかった〜。さくらさんの前に出ると、また、変な日本語使っていないかと緊張するから

しゃべれなくなるんです」

そんなに気にしなくてもいいのにと、くら子はマーカーを置いた。

「それで、どんなご相談なんですか」

まろみが、くるりと椅子を回転させてくら子を見上げた。

「くわしいことはご本人から聞いてくださいということで、何もうかがっていないの」

 翌日の午後、宮前夫妻が事務所を訪れた。

ロマンスグレイという言葉がぴったりの夫は、一見して仕立ての良さがわかるダークスーツ

で、妻は真っ赤なカシミヤのアンサンブルに真珠のネックレスという熟年夫婦。

「戸田さくらさんのお知り合いということですが」

くら子の問いに、夫婦で一瞬顔を見合わせた後、妻のゆかりが答えた。

「はい、夫は宝石店を経営しておりまして、さくらさんはうちのお得意さまです」

「まあ、そうだったんですか。それで、ご相談というのは?」

今度は夫の隆志が答えた。

「今の家を減築したいと思いまして、そのために荷物の片付けをお願いしたい。これがひと

つ。もうひとつは、減築のアドバイスをしていただけたらと」

 まろみがお茶を出して、くら子の隣に座った。

「減築とはどの程度のことをお考えですか」

「二階建てを平屋にしようと思っています」

 宮前夫婦には息子が二人いるが、どちらも宝石店を継ぐ気はなく、長男は東京の医大を卒

業して教授の娘と結婚し、世田谷に家を建てた。次男は公務員で現在福岡にいるが、転勤族

なので親元に戻ることはないだろうということだった。隆志は続けた。

「減築のことですが、長男の高校時代の友達の三井君が設計事務所をしてまして、依頼をし

たのですが、彼はビルが専門で住宅を手掛けたことがないらしく、くら子さんにアドバイス

をお願いできたらと、こうしてうかがった次第です」

「わたくしでお役に立つことでしたら、お手伝いしますが、建築士の方はそれでよろしいの

ですか」

一般論だが、建築士は部外者が設計に口を出すことを好まない。

ゆかりは手を口に当てて、おほほとさもおかしそうに笑った。

「三井君たら、独身だし、料理もしたことがないんですよ。息子に言わせると、三井のマン

ションはホテルみたいなもんで、寝に帰るだけだって言ってましたの。彼には悪いけど、そ

んな人が作ったキッチンは、見栄えは良くても使いづらいに決まっています」

 くら子の、さもありなんという顔を見て、ゆかりは調子づき膝を乗り出した。

「実は、わたしのお友達がね、ある有名な建築家に設計を依頼して建てた家が、ひどかった

のです。いえ、見かけはよろしいのです。雑誌にもグラビアで大きく紹介されました。で

も、あちこち使いづらくて。そこの奥様左利きなのです」

「右利きと左利きでは使い勝手が違いますからね」

 ゆかりは、くら子の答えに、わが意を得たりという顔でちらっと夫を見た。

「そうなのです。建築家は自分の作品を作りたかったようです。だから1000万もするドイツ

のシステムキッチンを入れたのに使い勝手が悪くて、仕方なく、キッチンを作りなおそうと

したんです。ところが、その建築家が、自分の作品をぶち壊すなと怒鳴りこんできて、大騒

ぎで警察まで呼ぶ始末でしたの。そのご夫婦は心労でまいってしまい、もう耐えられないと

言って、新築の家を売って引っ越されたのです。夫は、雑誌に紹介されているような有名な

先生にお願いしたかったみたいなんですけど」

 ねえ、あなたと、ゆかりは夫を横目に見て、続けた。

「だから、わたしは偉い先生に依頼するのに反対したんです。三井君なら、こちらも言いた

いことが言えますし。それにわたしたち、年をとってもあの家で暮らしたいと思っています

ので、バリアフリーのこともありますし…」

 隆志が手にしていた湯呑み茶碗を置いて、腕時計を見た。

「ゆかり、このへんでもういいだろう。今日はご挨拶ということでうかがったのだから。あ

まり長居をしてはご迷惑だろう」

 その日は一日中、室内に香水の残り香が漂っていた。




 翌日、まろみはインターネットで「減築」を検索した。話には聞いていたが、具体的に減

築するという話は初めてだったからだ。かなりの企業が「減築」を宣伝文句にしている。

「ふ〜ん、けっこう減築しているんだ」

 まろみのひとりごとに、くら子が、何が? と聞いた。

「いえ、昨日の宮前夫妻の減築のことで、初めてだったから」

「そうねえ、まだ一般的ではないわね。でも、これから増えると思うわよ」

「そうでしょうか?」

「今の高齢社会を考えると、これからますます老人世帯が増えていくのよ。頑張って子供た

ちのためにと思って建てた家に、子供たちは戻ってこない。夫婦二人では広すぎる。だけ

ど、長年のご近所の付き合いとか友人もあるから、引っ越しはいや。それに、家もそろそろ

古くなって修理の必要がある。どうせなら、減築するほうが、耐震性も高められたり、冷暖

房費だって減らせるでしょう」

「そうじも楽ですしね」

「本音の部分では、それが一番だったりしてね」

 突然、まろみはパンと手を打って、チャーンス! と声を張り上げた。

「なによ、びっくりさせないでちょうだい」

 椅子から転げ落ちそうになったくら子に、まろみがもったいぶって言った。

「だって、減築するには当然荷物を減らす必要がある。そこで登場するのが『わくわく片付

け講座』と『お片付けサービス』ですね」

「優秀なスタッフがいてくれて、涙が出そう」くら子は目をぬぐう真似をして下を向いた。

「うそばっかり、ホントは笑ってるでしょ」

まろみが腕を組んでくら子に向き直った。

クククという小さな笑いが次第に大きくなり、くら子は目に涙を浮かべていた。

 10日後、くら子とまろみは宮前邸に向かった。 

高い石塀と樹木に囲まれた豪邸を見上げて、まろみがあんぐりと口を開けた。

「やっぱり、宝石屋さんってもうかるんですね。こんなお屋敷、初めてみました。実は宝石

店は仮の姿、密輸をしているギャングの親分とか」

まろみはきょろきょろあたりを見回した。

 ばかねえと、くら子はまろみの腕を軽く叩いた。

「お店といっても、会員しか入れないらしいの。ウインドウがあるようなお店を構えている

のではなくて、高級マンションの一室で一日に一人か二人のお客様に宝石をお見せするらし

いわ」

「それで、商売になるのですか」

「なるからこんなお屋敷に住めるのではないの? お得意様はいわゆるハイソサエティの

方々らしい。扱っている宝石もそこらのお店と桁が違うみたい。マンションが買えるくらい

値段の指輪やネックレスを、これいただくわって、ぽんと買うんだって」

「アンビリーバボー」

まろみは大げさに両手を広げた。

「信じなくてもいいけど、世の中にはわたしたちの知らない世界がたくさんあるってこと

よ。それより、わたしたちは仕事をしましょう」

 インターホンで名乗ると、どうぞという声がして、ぎぃーっと門があいた。




  宮前ゆかりは、笑顔で二人を迎えた。

 玄関には大きなクリスタルの花瓶からあふれるほどのカサブランカが活けられ、強い香り

を放っていた。応接間までの長い廊下の壁にはギャラリーのように絵がかかっていた。

 シャガール、マチス、ピカソ、クレーと、美術館でしかお目にかかれないような画家のリ

トグラフやデッサンの小品が並んでいる。

 案内された応接間の天井にはクリスタルのシャンデリアが輝き、床には絹の絨毯が敷か

れ、白い革張りのソファーが中央に半円を描いて置かれていた。

 壁には大きな暖炉があり、反対の壁は一面天井までの収納で、ガラスの扉の中には、アン

ティークのオルゴールやビスクドール、マイセンの磁器の人形などが飾られていた。

 ソファーを勧められて腰をおろしても二人は落ち着かなかった。

 お茶の用意をしてきますのでと、ゆかりが姿を消した途端に、まろみがきょろきょろと見

回した。

「ここは美術館みたいですね。泥棒が入ったらどうするのでしょう」

 くら子も同じようなことを考えていたので、苦笑して答えた。

「これだけのおうちだから、セキュリティは万全でしょう。それに保険もかけてあるだろう

し、まろみちゃんが心配しなくても大丈夫よ」

 まろみがサイドテーブルの上の白い胡蝶蘭が本物かどうか調べていると、ゆかりが優雅な

象嵌を施したワゴンを押してきたので、あわてて座りなおし、膝の上に手を置いた。

「ごめんなさい。今日は手伝いの人がお休みなもので」

 ゆかりはソファーに合わせた楕円形のガラスのテーブルに慣れた手つきでティ―ポットや

カップを並べ、最後に砂時計を置いた。

 皿に乗ったウィーンのケーキ、クグロフを見て、まろみがごくんとつばを飲み込んだの

で、くら子に肘でつつかれ、わかってますとうなずいた。
 
スピーカーは見えないが、室内には会話の邪魔にならない程度の静かな音楽が流れている。

「さくらさんから、お2人が甘いものがお好きだとうかがってますのよ」

 砂時計の砂が全部落ちたのを見て、ゆかりが楽しそうに、紅茶を注ぐ。

「さあ、どうぞ。クグロフがお口に合いますかどうか」

合います。合いますというまろみのつぶやきに、ゆかりは微笑んだ。

「先日は肝心のお話ができなかったもので、ごめんなさい。それに、一度家の様子も見てい

ただきたかったものですから。冷めないうちにどうぞ、お話はその後で」

 サロンのお茶会とはこういう雰囲気なのだろうかと、くら子はダージリンの紅茶を味わっ

た。確か、クグロフはマリー・アントワネットの好物だと聞いたことがある。くら子は優雅

なサロンを思い浮かべながらバターたっぷりのケーキを口にし、うっとりした。




 おいしいお菓子と紅茶の至福の時間を終え、くら子とまろみはビジネスモードに切り替え

るために、カップを脇に寄せ、手帳を広げた。

「減築して平屋にされるということですが、設計はどの程度すすんでいるでしょうか」

くら子の問いに、ゆかりは手を振って答えた。

「まだ、まっ白です。それで、これからくら子さんたちに加わっていただいて、三井君と話

をしたいと思っています」

「そうですか。まだ他のお部屋を拝見しておりませんが、高価な美術品のコレクションをし

ておられるようですが」

「ええ、この部屋にあるのは一部です」

 くら子とまろみはぎょっとして顔を見合わせた。

「ほとんどは2階にありまして、1部屋をコレクションの部屋にしております。あと、図書室

には、外国の本や石ころがたくさんあります」

  石ころ? とまろみがつぶやいた。

「あら、ごめんなさい。主人に言わせると貴重な本や鉱物だそうですが、わたしにはただの

汚い石ころにしか見えないものですから」

 ほほほと笑いながら、ゆかりは続けた。

「主人はK大学を卒業後、ケンブリッジに留学し、美学や美術史を学ぶうちにジュエリーに興

味を持ったそうです。日本でジュエリーが美術館で見られるようになったのは最近のことで

すけど、欧米では長い歴史がありますからね」

 ゆかりは、まろみの耳の小さなルビーのピアスに目を留めた。

「まろみさんは、かわいいピアスをしておられるけれど、日本でも古墳時代に素敵なピアス

をしていたのをご存じ?」

えっ、そんな昔にですかと、まろみは驚いた。

「そうなのよ、信じられないでしょうけど、5、6世紀の頃にはハート型の耳飾り、今でいえ

ばピアスがあったのよ。それも男性がつけていた」

「クールですねえ」

クール? なるほどねえという表情で、ゆかりは続けた。

「まろみちゃんのいう日本のクールな耳飾りは7世紀ごろまでで、その後、流行するのは第二

次世界大戦後なのです」

 2人はゆかりのジュエリーの話に引きこまれた。

 グランドファーザーズ・クロックが時を告げ、くら子はハッとした。ゆかりも気がつい

た。




「あら、ごめんなさい、わたしったら、余計なことばかりお話しして」

「いえ、とんでもない。消えたネックレスの話はこの次にお聞きしたいです」

 ビジネスモードに戻って、くら子は聞いた。

 「一応確認のためにお尋ねしますが、これだけのお屋敷で、貴重な美術品などをたくさん

お持ちです。二階建てが平屋になるということは、単純に考えて空間が半分になることです

から、持ち物もそれ相応に減らしていただくことになりますが、よろしいのでしょうか」

「ええ、その点は2人で話し合いました。夫が長年かかって集めたものですし、わたしもそれ

なりの愛着があります。それを簡単に手放す気にはなれませんので、小さな美術館を開設し

て、そこで一般の方に公開できればと思っております。残念ながら、息子たちは夫の仕事を

継ぐ気はありませんので、店は同業の方にお譲りして、美術館で、先ほどお二人にお話した

ようなジュエリーの話ができればね」

「さっきのは予行演習ですか?」

まろみの無邪気な問いに、ゆかりは楽しそうに笑い声をあげた。

「それで、美術館の方はどちらに?」

「さくらさんのお知り合いが古い洋館に住んでおられたのだけれど、ひとり暮らしが無理に

なったから、さくらさんの撫子ホームに入居されたの。それで、残ったお屋敷をどうするか

ということで、さくらさんからご相談があってね。わたしたちも美術館なんて考えたことも

無かったのだけれど、これは元々さくらさんのアイデアなのよ。くら子さんならおわかりで

しょう」

さくらさんはアイデアウーマンですからとくら子はうなずいた。

 くら子とまろみは、屋敷を案内された。

 図書室の二面の壁は天井までの棚で、一面には本がぎっしりと並んでいた。

ほとんどの本は外国語で、ハガキ大の大きさの本から、革の装丁の箱のような本まであっ

た。

窓際には大きな机が置かれ、二台の顕微鏡と、四角い機械が載っていた。

もう一方の壁にはたくさんの箱が納まっていた。

 くら子は子どものころに見た、羽を広げた蝶々がピンで留められていた木製の標本の箱の

ように見えた。

「こちらは鉱物や化石なんです」ゆかりは、箱の一つを棚から抜いて、机に置いた。木箱の

上部はガラスがはまっており、きちんと区切られた中には石が並んでいた。

ピンクの石には学名と共に日本語でロードナイト―マダガスカルと几帳面な字で書かれた小

さな紙が添えられていた。

「これ全部石なのですか?」

丸い目をさらに丸くしてまろみが聞いた。ゆかりは肩をすくめて、たぶんと答えた。

まろみは、熱心に棚の箱の中をのぞいていた。

「ここにアメシストという、ごつごつした塊があるんですけど、あのアメジストですか」

「そうよ。確か二月の誕生石だったと思うけど。ギリシャ語で『酔わない』という意味で、

昔は酔い止めのお守りとして使われていたそうだけど」

まろみの、わたしもアメジストの酔い止めが欲しいなあという声に、くら子が調子に乗らな

いでと、ストップをかけた。




 次に案内されたのは書斎だった。

こちらは二面の壁が収納庫で、図書室と同じように窓際に机があり、その横に三台のスチー

ルのファイルボックスや大きなワゴンが置かれていた。
 
鍵のかかった収納庫の中は、大小の引き出しが並んでいた。

 ゆかりは引き出しの一つを抜いて、光のあたる窓際に持って行った。

黒いビロードの内張りをされた引き出しには、光を受けて輝く二個のブローチがあった。

左側には、三尾の金色のタツノオトシゴのまわりに、水の泡に模した丸い部分に白いオパー

ルがはめ込まれた、まるで水中のような様子を表しているブローチ。

右側には、緑の羽根のトンボで、頭の部分は人間の女性の上半身がかたどられている。

 これはどちらもルネ・ラリックの作品ですと説明するゆかりの言葉は、2人の耳には入らな

かった。くら子はふーっとため息をつき、隣のまろみを見ると、じっとタツノオトシゴを見

つめている。

「まろみちゃん、よだれが垂れてる」

えっと、まろみはとっさに口の端を手でぬぐった。

冗談よ、とまろみの肩を叩き、くら子はゆかりに向き直った。

「美術館になれば、こういうすばらしい作品がわたしたちにも拝見できるようになるのです

ね」

「ええ、さくらさんが個人のコレクションとして眠らせておくより、公開すべきだとおっし

ゃってね」

「わたしもそう思います」

 2階の夫婦のクロゼットは小さなマンションが1つ入るくらいの大きさだった。ゆかりがド

アを開けて2人を通した。

 洋服のコーナーが1番大きく、端の扉を開けると、パーティー用のスパンコールのついた黒

いイブニングから、まるで芸能人かと思うようなシックで美しいドレスが並んでいた。

それを見た途端、きゃーとまろみは踊りだしそうな勢いである。

「外国で大使館のパーティやレセプションに出席するのに必要なのです。それに、ジュエリ

ーの仕事をしている以上、それなりのものを身につけなければおかしいでしょ。というの

は、表向きで、わたし自身がおしゃれが好きで、着飾るのが楽しかったのよ」

 ゆかりは次々と扉を開けていく。

「ここは帽子のスペース、実用的でないものもあるけれど、これもわたしの趣味」

100以上はあると思われる色とりどりの帽子の箱にくら子は思わず聞いた。

「これは全部海外で誂えられたのですか」

「ほとんどがそうね。日本でも10年くらい前はオーダーのおしゃれな帽子を作ってくれると

ころがあったけど、職人さんが年を取ったのと、帽子をかぶる人が減って、お店が消えてい

ったのはとても残念」

「でも、最近若い人向けの帽子のお店ができていますよ。ねえ、くら子さん」

まろみのことばにそれは少し違うだろうと思いつつ、くら子は黙って帽子の箱を見つめた。

 ゆかりが1つの箱を開けると、ラベンダー色の薄紙の中から黒い花が現れた。

大きなコサージュという感じで、オ―ガンジーとサテンの花弁を囲むようにレースが取り巻

いている。

「まろみさん、これはトークとかヘッドドレスとよばれているのだけれど、素敵でしょ」

「わ、わかりました。こんな、お、お帽子はどこにも売っておりません」

 バッグや靴が、整然と並べられた棚を前にして、くら子は、美術館へ移すものと、屋敷に

残すものを分けることが第一の仕事だと思った。デジカメで撮影し、アルバムも作っておい

た方がよいだろう。そして、念のために聞いた。




「あの、他にもコレクションをお持ちですか」

「あとは、食器だけです」

くら子は平静を保とうとしたが、声はほんの少し震えていた。

「どちらにありますか」

「ダイニングの横の小部屋に、海外で買ってきた食器がありますの」

「リビングの棚とは、もちろん別ですね」

「ええ、外国からのお客様をもてなす時には、その方のお国の食器を使うのが良いかなと思

いまして」

「何カ国くらいの食器があるのですか」

「さあ、数えたことがないから…」

 くら子の普段の仕事なら、ざっと家の中を拝見して、荷物の量を確認し、段取りを決める

のだが、今回はまるで勝手が違い美術館のツアーのようだと思った。

しかし、こういう経験は度々できるものではないので、ゆかりのペースに合わせていこうと

思った。

「ひとりでしゃべって、のどが渇いたわ、少しお待ちいただけます?」

 ゆかりが席を外している間に、まろみも手洗いに立ち、興奮して戻ってきた。

「くら子さん、ここのおトイレはうちのリビングくらいの広さがありますよ」

 2人でトイレのタイルの話で盛り上がっているところへ、ゆかりが長手盆に日本茶の用意を

して現れた。

「おいしい宇治の新茶をいただいたので、ご一緒にと思って」

  添えられているのは厚切りの羊羹。一目で老舗の和菓子屋のものとわかる。

 まろみがくら子にそっとささやいた。

「羊羹って、こんなに厚く切るものなのでしょうか。わたし、カルチャーショックです」

「ほんとに、びっくりすることばかりね」

 ゆかりがゆっくりと小さな茶器に新茶を注ぎ、錫の茶托にのせて二人に勧めた。

「紅茶やコーヒーも美味しいけれど、この頃は日本のお茶が一番だと思うようになって、年

のせいかしらね」

「わたしたちも日本茶は大好きです。ねえ、まろみちゃん」

まろみはニッと笑って、はい、羊羹はもっと好きですと答え、ゆかりが爆笑した。




 ダイニングに隣接した部屋の食器棚のガラス扉の中には、大量の食器が収納されていた。

 ウェッジウッド、マイセン、ヘレンド、エインズレイなどの洋食器に、繊細なカットが施

されたバカラのグラス、クリストフルのカトラリー。中華料理のセットに、和食器も山ほど

あり、魯山人の器もあるようだ。

引き出しには白から始まって赤、緑、オレンジなどのテーブルクロスとナプキンがアイロン

をかけられて出番を待っているのだろう。

 くら子は個人の住宅でこれほどの食器を目にしたのは初めてだった。

「ゆかりさん、減築しても外国のお客様のおもてなしをされるのですか」

「いいえ、食器は2ピースくらい残して、後は息子の嫁たちが欲しいと言えば譲ろうと思って

います」

 まろみはガラスの向こうのジノリのカップをのぞきこんだ。

「あの、これジオ・ポンティのデザインじゃないですか」

よくご存じねとゆかりは驚いた。

 まろみの趣味は、ミステリーの読書と食べ歩きに加え、デパートの食器売場をのぞくこと

である。

「本物を見るのでは初めてです」まろみは興奮している。

 どうやら、これらの食器もかなりの価値あるコレクションである。

「お好きな方には価値があっても、料理や食器に興味のない人にとっては、ただのガラクタ

だから。長男の嫁は眼科の開業医で、次男の嫁も公務員なの。2人ともお料理はあまり好きで

はないみたい」

ゆかりの言葉には、残念そうな響きがあった。

「今、アガサ・クリスティーの『葬儀を終えて』を読んでるんですけど、遺産相続でスポー

ドのデザートセットを誰がもらうかでもめていましたけど」まろみの目は輝いている。

この小説は遺産相続の話で、欧米では高価な食器や銀器は相続の対象となる。これらはもち

ろん、棚に飾っておく美術品ではなく、日常もしくはハレの日に使う食器であり、家族の思

い出もそこに重なる。また、このような洋食器のメーカーは何十年も同じ柄を作り続けてい

るので、皿が一枚割れれば、同じ柄を買い足すことができる。だからこそ、子から孫へと使

い続けることができるのである。

「まろみちゃん」くら子はたしなめた。


                       





アガサ・クリスティーはご存知だと思いますが、ジオ・ポンティーはイタリアの建築家、イ

ンダストリアルデザイナーで雑誌「ドムス」を創刊したり、イタリアの食器のブランド ジ

ノリでアートディレクターもしていました。

私が一番好きな作品はトネリコ材の超軽量の椅子「スーパーレッジェーラ699」です。

1957年に製作され、現在もカッシーナ社で販売されている、すばらしい椅子です。




 







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