bQ 鉄男さんが消えた!


        なぜ、そんなにものを集めるの? 溜め込むの? 夫婦の危機です




 講座の受講申込書を片手に、まろみが考え込んでいたので、くら子がどうしたのと声をか

けた。

「鮒瀬芳美さんって、63歳の男の人でした。どうしましょう?」

「受講の案内には女性限定とは書いてないから、別にいいんじゃない? 志望の動機にはな

んて書いてあるの」

「それが、妻が出て行って困っていますとしか」

「熟年離婚かしらねえ、でも、男性が女性に交じってこういう講座に参加しようと思うのは

よほどの事だから」

「でも、パーソナルカラーやメイクの講義はどうします?」

「カラーの方は問題なし。似合う色は男性でも知っておいて損はないし、メイクの時だけ、

個人面談にしましょうか」

 こうして、くら子は鮒瀬芳美と話をすることになった。まろみも横で聞いている。

 鮒瀬芳美は名札に鉄男と書いていた。

「鉄男さんと呼んで欲しいということでしたが、このお名前は、鉄道マニアということでし

ょうか」

「はい、鉄男にもいろいろあるのですが、わたしは模型を集めるのが好きでして」

 くら子とまろみは顔を見合わせた。

 鉄男は饒舌だった。高校時代からの鉄道マニアでいわゆる撮り鉄だったが、就職し、仕事

に追われる生活になるとそれもできなくなり、次第に遠ざかった。

 子供はなく、三年前に退職し、家でじっとテレビを見てるより、何か趣味を持てと妻に言

われ、昔の鉄道の夢が甦った。そんな時、たまたま同窓会で会った友人が鉄道模型を集めて

いるというのを聞いて、競争心が湧いた。
 

 インターネットで模型を買い続けた結果、愛想を尽かした妻は妹夫婦のところへ身を寄

せ、離婚届けを送ってきた。離婚という人生の一大事をまるで他人のことのように話す鉄男

にくら子は聞いた。

「それでは、鉄男さんは家の整理をしたいと思ってこの講座に来られたのでしょうか」

「はあ、どうすればよいのか、わからなくて…」

迷子のようだと思いながら、くら子は話の糸口を見つけようとした。

「わたしは鉄道模型の事はよく知らないのですが、線路を作って走らせたりなさるのです

か」

「いや、そんなことはしません。そんなことをしたら塗装がはがれるし、車体に傷がつきま

す。パッケージは開けないんです」

やはり所有欲かと思い、くら子は話を進めた。

「では、何のために買われるのでしょうか。後々高く売ろうと思っておられるとか?」

「とんでもない。ネットオークションでせり落とした時に、満足感というか、楽しいんで

す。それにシリーズものは全部そろえないと…」

鉄男の声がだんだん大きくなり、力が入ったのがわかったのでくら子はあえて水をさした。

「奥さまはなんとおっしゃったのでしょうか」

とたんに鉄男の声が小さくなった。

「模型だらけで足の踏み場もないような家にはいられないから出ていくと…」

くら子はやさしく訊いた。「それでもやめられませんか?」

「はい」と下を向き、唇を結んだ鉄男をみて、話を変えた。

「模型はパッケージのまま保管されているのですね。箱から出してみたりなさるのですか」

とんでもないと細い目を精一杯見開いて、鉄男は首を振った。

「出しません。ただ持っているというのがいいんです。ちゃんとパソコンでリストを作って

チェックしていますから」

くら子は作戦を変えた。

「それでは近くにトランクルームをお借りになって、そちらに置かれてはいかがでしょう

か。そうすれば部屋の中もすっきりしますが」

「なるほど、そういう手がありましたか。そうすれば妻も帰ってくるでしょうか」

鉄男の妻が怒るのも無理はないとくら子も思った。

「さあ、それは…たぶん奥さまは部屋のスペースのことだけをおっしゃっているのではない

と思います。トランクルームの事も含めて、奥様とお話をなさった方が良いかと思います」

 そうなのでしょうかと、鉄男はうなだれた。鉄男が帰ると、まろみがためいきをついた。

「あれじゃあまるで、おもちゃを欲しがる子供ですね。奥さんが出ていくのも無理ないで

す。ガツンと言ってやればよかったのに」

「本当のところは奥さんに聞いてみないとわからないし、ご夫婦の問題は他人にはわからな

いから、今回これ以上の口出しはしませんよ、いいわね、まろみちゃん」

 鉄男はその後の講座も元気に出席し、熟女たちに囲まれて饒舌だった。

 しかし、五年後、十年後の自分や、暮らしを考えるという課題が出てから無口になった。


講座の後片付けをしながら、まろみが心配そうに言った。

「今日の鉄男さんはおとなしかったですね。自分史を書いたり、年金や、今後の生活設計の

ことだったから、いろいろ考えたんですかね。子どもはいないそうだから、病気になったら

奥さんしかいないということに気づいたのかも? 模型は介護をしてくれませんからね」

「まろみちゃん、介護をするために奥さんがいるのじゃないわよ」

「そりゃあそうですけど、鉄男さんは模型と奥さんと、どちらが大事なんでしょう」

「本当は、比べる次元の話ではないと思うけど、それを考え始めてから無口になったのかも

しれない」

 講座が終わって二カ月後、上品なクリーム色のスーツを着た女性が事務所を訪れた。

「突然おじゃまして申し訳ありません。わたくし鮒瀬芳美の妻の加奈子です」

「鮒瀬さん?」

 加奈子はにこにこしながら自己紹介をした。「鉄男の妻です」

「まあ、鉄男さんのおつれあいですか。失礼いたしました。まあ、どうぞお座りになって」

くら子はソファーを勧めた。

 佳奈子は江戸紫の風呂敷から手土産の菓子折を出して、つまらないものですけどと、くら

子に渡した。

風呂敷を畳んでバッグにしまい、ソファアに浅く腰掛けた佳奈子は改めて頭を下げた。

「この度は鮒瀬がお世話になりまして、ありがとうございました。お陰で鉄男は消えまし

た」

「鉄男さんが消えた? まさか、失踪なさったのですか」

くら子の動きが止まったのを見て、加奈子はフフフと笑って続けた。

「あの人にそんな度胸はありませんよ。模型を全部売り払ったんです」

「そうですか、それは良かった。と申し上げてよいのでしょうか」

「それはもう、わたしが何を言ってもうるさい! といって耳を貸さなかったのですから。こ

ちらの講座でいろいろ考えたようです。模型を売り払ったら、憑きモノが落ちたみたいに、

本人もさっぱりしたようです。本来なら、鮒瀬がお礼に伺うのが筋なのですが、どうも照れ

くさいようで、わたくしがまいりました」

ほっと胸をなでおろしたくら子は思い切って尋ねた。

「ほんとに離婚なさるおつもりでしたか」

「いいえ、おどかしただけです。長年連れ添った夫婦ですもの。会社から解放されてようや

く夫婦の時間が持てるようになりましたから、一緒に年をとっていきたいと思っています」


「そうでしたか、わたしもほっとしました」

「そこでご相談がありまして、わたしも『わくわく片付け講座』を受講させてもらえるでし

ょうか。鮒瀬がこちらに参加されている皆さんはいきいきして、どんどんきれいになってい

くから、お前も行ってきれいになって来いって申しますの」

加奈子の頬が赤く染まったのを見て、くら子は心からよかったと思った。

「ごちそうさまです。どうぞますますおきれいになって下さいませ」

 加奈子が帰り、手土産の羊羹をほおばりながらまろみがつぶやいた。

「あんなに素敵な奥さんがいるのに、なんで鉄男さんはわからなかったのでしょうかねえ」

「本当に大切なものは失ってみてはじめてわかるものかもしれないね」

しんみりと答えたくら子にまろみが突っ込んだ。「実体験ですか」

お茶をがぶりと飲み込んで、くら子は言った。「ノーコメント」

    






鉄男さんのことを書きましたが、子どもの頃には鉄男くんなのでしょうね。

2019年4月5日 ブログ 「春休みの催し こうして鉄男くんは育っていく?」

三つ子の魂百までと申しますから、趣味というのも簡単に割り切れるものではないでしょう

ね。


 








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