13  37回の引っ越し  

    58歳で引っ越しばかり繰り返すのはなぜか




 パソコンでメールを確認していたまろみが、くら子さん、これ見てくだ


さいと手招きをした。テーブルで講座修了者の一人に手紙を書いていたく


ら子は、まろみのパソコンを覗き込んだ。


「講座のお問い合わせかな?」


 メールには、この10年間で37回も引っ越しを繰り返している弟のことが


心配だという、妹からの相談メールだった。とはいえ、弟は58歳、姉は62


歳である。売れない小説家の弟は、書くことに没頭するために、洗


濯や掃除、片付けなどの家事を放棄している。大学を卒業し、エンジニア


として働いていた頃は妻や子もいたが、愛想を尽かして十五年も前に出て


行ったきり、音信不通。引っ越しを繰り返すのは、ゴミを溜めて、どうし


ようもなくなると次のアパートに移るからである。


北斎みたいな人ねえと、くら子は思わずつぶやいた。


「え、奥さん?」


わたしの滑舌が悪いから、通じないのかしらねえと、くら子は、あ、え、


う、と、口を大きく開けた。ほんと、くら子さんは単純なんだから、とま


ろみは腕組して見ていた。


「ところで、ホクさんって誰ですか」


くら子は背伸びをして、頭の後ろで手を組んだ。


「浮世絵師の葛飾北斎、いわゆる奇人で、名前を変えることおよそ三十


回、引越しは九十回以上だって。作品はあまたあれど、有名なのは『冨嶽


三十六景』とか…」


「赤い富士さんとか、波がどどーっていうやつですね」


くら子はうなずいた。


「北斎はそんなに引っ越ししてたんですか」


「らしいわね」


「それなら、この小説家志望の人も北斎みたいになれるかも?」


「さあどうでしょう。それにこれはゴミ屋敷とは違って、確信犯だから」


「確信犯?」


「ゴミ屋敷の人は、あれもこれも抱え込むけど、本人はゴミだと思ってい


ない…たぶん。


だけど、この人はゴミを捨てるのが面倒なだけでしょう。それで、溜まっ


たら次のところへ引っ越すだけ」


 まろみは再びパソコンに向かい、メールの続きを読んだ。


「メールによると、このお姉さんは、花屋とフラワーアレンジの教室を経


営しておられるようで、忙しいから弟さんのところには月に一回くらいし


か行けないそうです」


「ゴミを片付けたいのなら、不用品処理の業者に頼めばいいけど、弟さん


の性格や行動を変えるのは無理ね。本人にその気がなければ、変わらない


でしょう。だから、わたしたちにできることはなさそう」


「それならそうと、くら子さんが返信して下さいよ。わたしはうまく書け


ませんから」


わかりましたと、くら子はパソコンに向かった。返信をして、ほっとした


くら子に、まろみが訊いた。


「どうしてそんなに、引っ越しができるのでしょうね。だって、家を借り


るにも、家賃以外にいろいろものいりでしょう。そんな費用を考えたら、


お掃除してくれる人とかを雇った方が安上がりのような気がしますけど」


確かにと、くら子も考え込んだ。


一週間後、事務所に来客があった。


メールで、ゴミを放置して引っ越しを繰り返している弟の相談をしてきた


山本マリンだった。


「メールでお返事をいただいて、わかってはいるのですけど、それでも何


とかならないかと思いまして、藁にもすがる思いでうかがいました」


 くら子はマリンに椅子をすすめた。


薄いオレンジ色の麻のスーツを着たマリンはとても還暦を過ぎたようには


見えなかった。


「両親が早くに亡くなり、わたしが親代わりに面倒を見てきたのですが」


「しかし、どうしてゴミを捨てないのですか」


「それが、どうやら、分別が面倒なようです」


「はあ、確かに面倒だとは思いますが…それが本当の理由なのでしょう


か」


くら子はマリンの様子をうかがった。


「松竹梅さん、いえ、くら子さんに嘘はつけませんね」


そこへ、まろみが冷たい煎茶を運んできた。どうぞと勧めると、マリンは


いただきますと一息に飲み干し、ああ、おいしかったとグラスを置いた。


まろみもくら子の隣に座ってマリンの話を待った。


笑わないでくださいねと前置きして、マリンは姿勢をただした。


「実は、天狗のお告げだそうです」


くら子はぷっと吹き出し、まろみはあんぐりと口を開けた。


すいませんと、あわてて笑いをかみ殺したくら子は、次の言葉を待った。


だから言いたくなかったのに、マリンは下を向いて、空のグラスを握りし


めた。


「弟さんはどこで天狗に会われたのですか」


くら子のまじめな問いに、マリンはグラスを置いてにっこりして答えた。


「高野山です」


「いつ頃のことですか」


「ある文芸誌の新人賞に応募して、最終選考で落ちた時に落ち込んで、一


人で山に行った時です」


なるほどと、くら子は頷いた。


「それで、どんなお告げだったのですか」


マリンは躊躇なく話し始めた。


「弟は自信満々だった最終選考に落ちて、自分には才能がない、小説家に


なるために会社も辞めたのにと、自暴自棄の状態でした。山中をさまよっ


ているうちに、道に迷い、夜になったそうです。死に場所を探すようなつ


もりだったのかもしれませんが、そこで、疲れ果てて岩陰でうとうとして


いました。はっと気がつくと、目の前に背丈が二メートルもあるような天


狗が現われたそうです。怖くてものも言えず、震えていると天狗が大声で


あっはっはと笑ったのだそうです。どうして、笑われるのかわからない


し、相変わらず体の震えが止まらない。そんな弟の様子を見て天狗は、た


かが、一回、賞を取れないくらいで、おたおたするなと言ったそうです」


くら子とまろみは、いつの間にかマリンの話に引き込まれていた。


「しかし、わたしは、会社も辞めてしまったし…」


弟がぐずぐず泣き言を言うと、それが、どうしたと、天狗は面白がってい


る。


「わたしは人間の屑です。まるでゴミみたいなもんです」


「ほう、お前はゴミか」と、天狗は顎に手をやって考え込んだ。


「それなら、ここで野垂れ死んで、土に還れ。そうすれば、世の中のゴミ


にもならず、山の獣も餌ができて喜ぶだろう」


「そ、そんな…」


ふふふと天狗は笑った。


「お前はゴミをバカにしたが、ゴミは元からゴミではないのだ。それにゴ


ミを作るのは人間だけだ。お前の望みをかなえたければ、ゴミを捨てる


な。よいな」


言い終わるや、白い霧が立って天狗は消えてしまった。


「こういうわけで、弟はゴミを捨てられないのです。かといって、生きて


いる以上ゴミは溜まる。だから、次々に引っ越して…」


くら子は、はぁーと気の抜けた返事をした。


「それで、くら子さんはどうすれば良いと思われますか」


マリンは、天狗と、ゴミを捨てなければ願いがかなうという弟の話を信じ


ている。


しかし、それは弟の妄想の世界ではないだろうか。いやいや、そんな事を


云えば、マリンは逆上するだろう。ここは穏便にいくしかないようだ。


「どうすれば、ゴミを捨てても良くなるのですか」と、くら子が訊いた。


「そりゃあ、弟が小説で賞を取って、一人前の小説家になったら…」


その可能性は、まろみがノーベル賞を取るくらいではないかとくら子は思


った。


「弟さんがゴミを捨てるのはダメで、他の人なら良いのですか」


はい、とマリンは笑顔で答えた。おかしな話だが、本人は真剣なのだから


仕方がない。


「それではビジネスホテルで長期滞在をされたらいかがですか。掃除もし


てくれますし、ゴミも捨ててくれます。ほら、流行作家でホテルに缶詰め


とかいう話もあるようですし、食事もルームサービスで、創作に専念する


とか…」


まあ、その手がありましたかと、マリンは明るい顔で、こちらにご相談し


た甲斐がありましたわ、弟が賞を取ったら必ずお知らせしますと足取りも


軽く帰った。


 ほんとに天狗なんているんですかねえと、グラスを片付けながらまろみ


は考え込んでいる。もしかしたら、あの人が天狗だったりして…。


 そうかもしれないと思いながら、くら子はゴミを出すのは人間だけだと


いう天狗の言葉を考えていた。猿も犬も猫も、バーゲンで毛皮を買ったり


しない。電気製品も使わない。そのうち、人間はゴミに埋もれてしまうか


も…。


「こわい話ね」


くら子のつぶやきに、まろみは天狗くらいへっちゃらですと答えていた。


 




★北斎の引っ越しを美術雑誌で知り、書きました。またこの北斎のことは


『老前整理の極意』第8回 老前整理の裏メニューでも取り上げています。





 







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